アート・デザイン
Cradle小林編集長特別寄稿
「新井満さんと出羽庄内」(中編)
(前編より続く)
新井さんと出羽庄内を繋いだのは森敦。平成元年に森が没した後も、新井さんは森の跡を継ぎ「月山祭」を旧朝日村の皆さんと一緒に平成8年まで続けた。そして翌年からは「月山文学祭」と装いを変え、会場も朝日村中学校に移し平成16年まで行われた。次代を担う中学生に森敦を通して生まれた旧朝日村と文学の出会いを味わわせたいとの思いがあったように思う。詩人の谷川俊太郎、岩波ホール総支配人の髙野悦子さんらを呼び、朝日中生徒の感性教育の一環として、講演や交流の時間をつくった。
新井さんは、平成7年山形県情報誌「いま、山形から・・・」に、「森敦はなぜ庄内に魅せられたのか」と題し次のように特別寄稿している。
「毎年8月の最終土曜日になると注連寺に出掛ける。森さんの人柄と森さんの文学をしたうたくさんの人々が、全国から月山の吹きに吹き寄せられるように集まってくる。全国的にも珍しい”月山祭″という文化イベントを開くのだ」(抄)。
「私の独断的推論を次に書く。森さんが庄内を選んだのは、庄内が庄内でありながら単なる庄内ではなく、ひとつのミクロコスモス・宇宙であったからでなかろうか・・・。考えてみると、まことに庄内とは不思議な土地である。西に”生″の山たる鳥海山を。東に”死”の山たる月山をいただく」。
小説『月山』は森敦の生、或いは死に対する独自の考え、哲学が描かれている作品だが、まさに森の哲学を踏まえそう推論している。
そして新井も森敦同様に庄内に魅せられ庄内に吹き寄せられていった。
平成24年は森敦生誕100年を迎える年であった。
年初めから、旧月山祭実行委員会有志、森敦文学保存会、出羽庄内地域デザイン(当社)の3者で実行委員会をつくり100年を迎えるイベントの準備を始めた。またCradleでは「森敦生誕100年」の特集を組みたいと取材を始めた。当初イベントは地元中心にあまり規模を大きくせずにやろうと取り組んだが、新井さんに私が電話をし協力を依頼すると、「森さんの生誕100年祭なんだから全国の森ファンも呼んでにぎやかにやらなければダメだ。自分はなんでも協力する」と檄が入った。新井さんからのハッパを受け、それではと、月山祭に来ていた全国の森ファンに呼び掛けるなど取り組みを強めた。
「森敦生誕100年祭」は9月8日午後3時から旧朝日村注連寺で開かれた。養女の森富子さんの記念講演、新井さん、作家の勝目梓さん、元「群像」編集長の天野敬子さん、旧朝日村議会議長の伊藤明栄による「森敦との思い出を語る」座談会、そして「新井満ミニコンサート」。ミニコンサートでは、組曲「月山」からとっておきの数曲がカラオケをバックに新井さんの生歌で披露された。注連寺境内に響き渡った、新井さんの甘く澄み透った歌声は今も頭の中でこだましている。
前日入りした新井さんは定宿である湯野浜温泉「竹屋ホテル」に泊まるが、夜に打合せを兼ねた歓迎会が始まり、早速だだちゃ豆とビールで祝杯をあげる。そして新井さんは、座談会の進行を担当する私を心配し、「森敦との出会い、印象」については、鮮明に記憶に残っていることを聞くこと、「森さんの人柄」については、風貌、衣装、お酒など具体的なエピソードを添えてもらうことなど、事細かにアドバイスしてくれた。おかげで当日の座談会では無事進行を務めることができ、新井さんからも「良かったよ」と褒めていただけた。
その日の夜の第二部「森の花見」では、「思い出の月山祭」のスライド上映、だだちゃ豆や朝日地区の地元料理、そしてビールに地酒で大いに盛り上がった。全国からの森ファンも森生前の「月山祭」に思いを馳せながら談笑の輪を広げ交流は夜遅くまで続いた。私も座談会進行の役目を終え、ついつい酒が進んだ。とても楽しい会だった。
このあとのことは後編で触れたい。
後編は、統合されたあさひ小学校の新校歌制作のことなどを述べてみたい。
写真提供:森敦文学保存会
参考資料:山形県情報誌「いま、山形から…」(1995年No.32)